信じるものは救われる

( 覚書程度にここに書いておく)

 

神社やお寺への参拝って

 

自分が自分がというエゴを戒めるため

傲慢になるのを防ぐため

自分1人でここまで生きてきて、自分が自分の力でもって、いろいろ成し遂げているという感覚を手放し

生かされているという感覚を取り戻す

感謝を意識する

謙虚さ、自然や宇宙に比べたら人間(自分)は小さいということを意識する

 

 

ためなんじゃないかなー?

 

 

これは、自分が生きていくために

大切なこと

 

 

お寺の仏様だろうが、神社の神様だろうが、ソースだろうが、なんでもいい

 

宗派なんて、どれでもいいし、混ざってもいい

 

 

大切なのは、自分の心の有り様だ

 

 

その宗教の習わし、決まりごとを完璧に守って正しく行動することは二の次でよい

 

 

最も重要なのは、

見えないものの力を信じること

 

 

見えないものとは、

自分の力以外のものであり、目に見えず非物質的であり、確かにわかる根拠もないもの

 

神様 仏様 お釈迦様 如来 お地蔵様 イエスキリスト ブッタ 不動明王 ソース 宇宙

これらは呼び方が違うだけ

みな同じこと

 

だから、お参りしなくたっていい

 

自分の心の中で、見えないものの力を信じ、感謝の気持ちを抱けばいい

 

 

でも、人は忘れる生き物
まるで自分1人の力でここまで生きてきて、いろいろ成し遂げている気になることがあるもの

 

 宗教の習わし、決められた行事(初詣やお墓まいりなど)は、生かされていることを忘れているものにとっては、それを思い出させてくれる良い機会なんだな〜

そう思うと、宗教ってありがたい
よくできてるな〜

でも、その宗教に支配されないようにね

あくまで、自分のために利用させてもらう感じでね

 

だから、ちゃんと守れなくてもいいんだ

守れなかったと罪悪感を感じることはなち

日にちがずれようが、関係ない日であろうが、参拝という行為をすることで、感謝の念を感じることができるなら、決まった日にちでなくてもいいから、できるときに、行えばいいんだ

 

参拝しなくても、感謝の念を感じることができるなら、参拝しなくてもいいんだ

 

 

参拝するのなら

言い伝えられている効果、効能、ご利益にすがるのではなく、参考にする心持ちで

 

どうしても、〇〇を叶えてください

という懇願の思いは執着 依存であり

 

そうではなく、俯瞰して捉え、

どうなっても大丈夫というフラットな心の状態で、今の状況に幸せですと感謝し、もしも叶うなら、〇〇が叶うと嬉しいですと謙虚に、思いを伝えよう

 

 

ここの神社は本当に△△のご利益があるのか?とか

本当に叶ったか?いつ叶うのか?

などと、結果を気にしない求めないこと

 

叶っても叶わなくてもいいや〜ってくらいで

 

本当にご利益のあるところなのかどうかは、願望の成就に関係ないのだ

 

 

ご利益があると信じ、参拝(感謝の念を伝え、おまけで願いを宣言)することで

 

これで、大丈夫だ、という安心感と

きっと叶えてもらえる と希望を感じることになる

この瞬間に、すでによい方向に向かっているのだ

 

やはり、

波動(感情)がこの世の全てなんだな〜

 

同じ波動同士がひき合わされる

 

 

信じるものは救われる とは

引き寄せ(宇宙)の法則のことを表している

 

見えないものの力を信じよう

そして、感謝しよう

 

定期的に産土神さまにお参りし、今日まで守ってくださり、ありがとうございますと感謝しよう

 

いつまでも

見えないものの力を信じている

あたしでいよう❤︎